読み書きについて① – 何様としてどう読むか

先日『アトミック・リーディング』についての記事をアップした後、僕は若干後悔していた。

これはちょっと、批判的に読まれすぎるのではないか。
もう少し「良い文章で、良い本だ」と強調しておいた方が良かったのではないか。
ごりゅごさんはもしかしたら、怒ってしまうのではないだろうか。

そんなことを考えて、内心ビクビクしていた。これは失敗かもしれない。
ただナレッジスタックにこちらの記事が投稿されたことで、少し救われたような気がした。

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記事を読んでみると、ぷーおんさんは「編集者的目線」を多く持った書き手なんだなあ、としみじみ思います。しばらくブログ書いてなかったことすらも面白話に変換してしまう能力というのも、きっと常に一歩下がった目線で俯瞰的に自分自身を眺めることができてるからなのではないかと。

自分は、そういうのができないんですよね。ごりゅごが書けるのは基本的に全部「おれの話」ばかり。それを、できる限り多くの人に届くように一般性を高めるという努力はするけど、ベースにあるのが完全に「おれ」で、前提になるのは必ず自分。そういうストーリーしか書けない、作れない。

本のリリースに合わせ、何度かやり取りさせていただく中で頂いた言葉が「編集者的目線」。
自分としては特に意識しているわけではないのだが、そういったコメントを頂くということは、僕は他人から見れば何か特徴的なことを実は行なっているのかもしれない。

だとすると、編集者的目線は (そんなものがあるとすれば) どこに由来するのか。
今回は「何様として読み、何者として書くのか」の前半として、何様としてどう読んでいるのかを少々掘り下げて考えてみよう。

何様として読むか

何様として読むかと言われれば、もちろん読者様として読む。これは厳密には「自分」とは異なる。

読者様は神経質で、物事を批判的に捉える。傲慢で頑固者。なかなか自分の考えを変えようとはしない。他人が書いた文章に対する要求も厳しい。かなり以前、どこかのテレビかアニメかで聞いたらしい「つまらん。実につまらん」が口癖で、お気に入りの椅子に座らないと、なかなか仕事をしたがらない。
このように性格的にはかなり取っ付きにくく、さらに彼の書く文章は少し硬い印象を与えてしまうため、多くの人に読んでもらうことを前提とするブログ記事には使いにくい。ただ読むことに対する厳しさと分析力においては信頼している。

では「この」読者様は文章をどう読むか。第一のポイントは、美しさにある。

美しさとは?

美しさとは決して個人の感覚の問題ではく、ある指標によって規定できる。例として「造形としての美しさ」を挙げよう。

これらはどれも左右対称の形をしている。真ん中で分割したとき、同じものが2つできるというのはある種の美しさだ。この状態を「対称性がある」という。
さらに球体はどうだろうか。

球体は回転させても、認識できる形としては変わらない。球体には左右の他にも回転に対する対称性=「回転対称性がある」のだ。
他にも物理学や数学の世界には「ゲージ対称性」「ローレンツ対称性」など、いくつもの対称性が存在している。対称性は、美しさの普遍的指標のひとつと言えるだろう。

では文章における美しさを決定づける、普遍的な指標とは何か。最もわかりやすい指標を挙げるとするなら「リズム」と「論理」である。

良い文章には良いリズムがある

駄目な例として、こんな文章を思い浮かべてみよう。

先日、ショッピングモールに行きました。
僕はデニムをを買った。
小諸王高い買い物だったが、満足した。
帰りに雨が降った。
傘を持ってなかったから困りました。

この文章は根本的な部分で美しくない。
まず語尾が全て過去を表す「た」で終わっている。語尾はリズムにとって最も重要な要素のひとつだ。平坦な語尾は平坦なリズムを生み出してしまう。平坦なリズムが繰り返されると、読者はどう思うだろうか?
「退屈だ」と呆れられるだけならまだ良い方で、「こいつは文章が下手くそだ」と安易に決めつけられても、このような語尾を繰り返していては文句も言えない。

次に敬体と常体だ。
「です・ます」と「だ・である」を混在させるべきではないというのは一般に広く知られている。一部例外を除き、これには従っておいた方が無難だろう。
(ある程度書くのに慣れている人は、敬体と常体の混在を意図的に、テクニックとして利用している)

最後に誤字脱字である。
これは語尾ほどクリティカルな問題というわけではないかもしれない。多少なりとも読める読者であるなら、「をを」が「を」であることや、「小諸王」が「少々」であることは容易に想像できるだろう。
ただこの誤字脱字も、リズムを狂わせる要因であることに変わりはない。小諸王を少々と読み替えるということは、読者はその瞬間、読む作業を中断して正しい日本語に変換する作業を行っているわけだ。
お気に入りの曲の途中で不意に一時停止が挟まれたとしたらどうだろう。リズムという観点から見れば、誤字脱字もできるだけ少ないに越したことはない。

美しさの第二段階

リズムに関するハードルをクリアしたなら、次にチェックされるのは「論理」である。
一応付け加えておくが、論理は倫理ではない。「人としてどうなの?」という文章でも論理的に通っているなら、それは少なくとも文章としては問題ない。
論理が通っていない文章というのは、ChatGPTにでも尋ねてみればすぐにわかる。

確かにこれは酷い。ただここまで酷くはないとしても、人は往々にして論理がすんなり通らない文章を書いてしまうものだ。
このブログを始めた当初の自分がまさにそうだったし、今でも多少気を使いながら書かないと、すぐさま落とし穴にハマってしまう。

「書き過ぎてしまう」のだ。これは書くことに含まれるので、次の記事まで取っておくとしよう。

美しさの先にあるもの

例外はいくらでもある。しかし基本的には、こういった文章としての美しさがある程度担保された先に「面白いかどうか」がある。

面白さというのは美しさと違って主観的であり、個人の感性や好み、あるいは住んでいる地域や年齢、職業などに起因するバイアスは避けようがない。だから僕が今ここで「面白いとはこういう文章である」と言ったところで、ほとんど意味は無い。範囲が広すぎるし、数が多すぎるし、僕の好みと完全に合致する人間の数が少なすぎるのだ。

逆に僕がどういう文章を「面白くない」と感じるかは割とはっきりと、これもいくつかの指標を用いて指し示せる。
まず第一に上記の美しさの基準を満たさない文章だが、その次に来るのがこの2つだ。
(挙げ始めたらキリが無いので、ここでは2つとしておこう)

型にはまった文章

聞き齧っただけの浅い知識によって作り出された「型」にはめられた文章を何度も読まされる時間ほどつまらないものは無い。つまり、多くの人がイメージするほとんどの「ブログ」はつまらない。

事実だけの文章

客観的事実しか述べられていないニュースのような文章は、読み物として面白いものではない。

それが事実であれば、データとしての価値は確かにある。
しかし残念ながら、この情報過多の時代では、データ単体の価値など数日で摩耗してしまう。少なくとも、特定の誰かから情報を得ようとは思わない。知るだけなら「誰でもいい」のだ。

「じっくり読む」に足る文章

  • 文章として、ある程度の美しさがあるかどうか
  • 面白くない文章に当てはまらないかどうか

読者様は、以上のハードルをクリアしていない文章を「知る」以上の価値が無いものと判断する。要するに、まともには読まない
もちろんここに挙げたもの以外にも、さらにいくつかのハードルは存在している。逆に言えば、このハードルを超えてきた文章が「じっくり読む」に足る文章だ。

じっくり読むとどうなるか。そこにはさらにハードルが課され、読者様の意見がさらにその上に乗ることになるだろう。つまり、

  • その文章は、その位置が最適なのかどうか
  • その部分は、全体にとって必要かどうか
  • その作品は、全体として美しいかどうか
  • その論に賛成か、あるいは反対か

こういった視点が出てくるのが、この段階である。

つまり僕が批判的に (粗探しをしながら) 読む、あるいは部分的にでも批判的な文章を書くということは、その対象としての文章が「少なくともこの段階にある」ことが前提にあるのであって、ここに満たない文章を僕が批判することなどあり得ない。なぜなら、ロクに読んでいないからだ。

内省の結果

こうして自分自身の「読む」という動作を細かく分析してみると、どうやら読者様の編集者的視点とは「じっくり読む」ことに由来しているようである。

「どいつもこいつも、もっと俺を楽しませろ」とは読者様の率直な意見であるが、このフレーズはどうも公の場に出すには憚られる。ここは僕自身が編集者目線で「面白い文章を読むって、本当に楽しいですよね」と修正した上で、ひとまずこの記事の締めとしたい。

次回は「何者としてどう書くか」について考えよう。

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